禁演落語の概要と演目一覧
禁演落語とは、太平洋戦争期の日本で「時局にふさわしくない」として落語家たちが上演を自粛した演目のことです。この記事では、禁演落語の概要と演目一覧、そして、禁演落語を題材とした朗読劇脚本「平成七福亭物語」について紹介します。
Contents
禁演落語とは
太平洋戦争期の芸能の検閲
禁演落語の話に入る前に、まずは太平洋戦争期の日本における検閲について触れます。
検閲とは、出版物や映画などの内容を公権力が審査し、不適当と認めるときはその発表などを禁止することです。検閲は現代の日本国憲法ではその実施が禁じられています。しかし明治から昭和初期にかけての日本では、書籍や音楽、映画、演劇などはみな検閲を受けていました。
明治、大正の時代には思想的な規制に触れるものが検閲のおもな対象でした。しかし時代が昭和に入り戦時体制が強まるにつれ検閲の範囲は広がっていきます。
太平洋戦争が近づいた1940年(昭和15年)、街には「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンが書かれたポスターが掲げられます。このような時代になると、演劇や映画の中の喧嘩や賭博、色恋などを扱う芝居や歌は「時局に合わない」と厳しく検閲されるようになりました。劇場には「臨監席」と呼ばれる席が設けられ、警察官がこの席に座って公演の様子を監視していました。不適切と考えられる演技があれば、その場で「中止」と叫んで上演を打ち切らせたのです。
落語界の自主規制から生まれた禁演落語
当然、落語の寄席も臨監の対象でした。落語家たちは臨監席の警察官に目を付けられないよう気を配って高座を勤めていたようです。そして規制を受けたのは芝居の中身だけではありません。落語家や芸人の名前にも指導が入ります。
アメリカ、イギリスとの戦争が避けられない状況になる中で英語は敵国語とされ、日常で使われていた英語は全て日本語に置き換えられました。カレーライスやサイダー、野球用語のストライク、アウトなどカタカナ表記の言葉はみな日本語に言い換えなければならなくなったのです。芸人の名前も例外ではありません。つまり「七福亭バット」という芸人が居たとすると「七福亭打撃具」と名乗れというような指導が入ったのです。
このように検閲や名前の変更などさまざまな形で規制を受けた落語家たちは、「時局に合わない高座を打っていたら落語そのものが規制されるのではないか」という危機感を感じたようです。そして講談落語協会は、艶笑もの、博徒もの、毒婦もの、白波ものなどの口演を禁止しようと話し合いました。
落語家たちは本の内容を吟味し、高座に上げても問題なさそうな話から控えるべきものまでを甲乙丙丁の4種類に分類し、一番下の丁に分類された演目は口演禁止の対象としたのです。丁に選定された演目は、紆余曲折を経て53編となりました。
そして、太平洋戦争が始まった年である1941年(昭和16年)の4月、上野鈴本演芸場に落語家たちが集まり、この53編を禁演落語として封印することが決められたのです。
禁演落語を埋葬した「はなし塚」
53篇の演目を封印すると決めた落語家たちはそれらの演目を寺に葬って弔おうと話し合います。埋葬する寺は浅草にある本法寺に決まりました。本法寺は芸事にゆかりの深いお寺です。
1941年(昭和16年)10月、本法寺の境内に「はなし塚」という記念碑が立てられ、その除幕式が行われました。高さ3メートルを超える大きな記念碑に文字を揮毫したのは当時の落語界の長老、鶯亭金升でした。この「はなし塚」の下に、禁演落語の台本や関係資料が埋められました。
この「はなし塚」は東京大空襲の戦火で焼けることなく、今でも浅草本法寺へ行けば見ることができます。
はなし塚に禁演落語を埋葬して以後は、新作の落語を創作したり、戦意高揚に協力する国策落語が演じられたりと、落語界は戦争下で高座を続ける道を模索することになりました。
禁演落語の復活
1945年(昭和20年)8月、戦争が終わりました。終戦直後の東京は瓦礫の山と化し、人々は今日食べるものを手に入れるのに必死になるような暮らしぶりでした。そんな時代でも人は娯楽を求めていたのです。
1946年(昭和21年)に入ると、東京の高座が徐々に再開し始めます。そのように落語の世界に元気が戻ってくると、禁演落語の封印を解いて復活させようという機運が高まりました。そして同年9月、浅草本法寺に大勢の落語関係者が集まり禁演落語の復活祭が執り行われ、53篇の演目の封印が解かれたのです。
現代ではこれらの落語は自由に演じることができます。かつて禁演として自粛された演目を自由に演じられる現代の落語家の皆さんは、落語が戦争に翻弄されたことを忘れないようにと、毎年8月に「禁演落語の会」という落語会を開いて、禁演落語53篇の中の演目を語り継いでいるそうです。
禁演落語の演目一覧
禁演落語に選ばれた演目は次の53編です。
五人回し、品川心中(その下)、三枚起請、突き落し、ひねりや、辰巳の辻占、子別れ(その上)、居残り佐平次、木乃伊取り、磯のあわび、文違い、茶汲み、よかちょろ、廓大学、明烏、搗屋無間、坊主の遊び、白銅、あわもち、二階ぞめき、高尾、錦の袈裟、お見立て、付き馬、山崎屋、三人片輪、とんちき、三助の遊び、万歳の遊び、六尺棒、首ったけ、おはらい、目ぐすり、親子茶屋、宮戸川、悋気の独楽、権助提灯、一つ穴、星野屋、三人息子、紙入れ、つづら間男、庖丁、不動坊、つるつる、引越しの夢、にせ金、氏子中、白木屋、疝気の虫、蛙茶番、駒長、後生鰻
※この記事を書くために参考にした文献とwebページ
「禁演落語」 小島貞二 著(筑摩書房刊)
“笑い”が封じられた時代 落語家たちは名作を葬った (NHK WEB特集)
禁演落語を題材にした脚本「平成七福亭物語」
私はこの「禁演落語」を題材にして、朗読劇「平成七福亭物語-気楽に笑っていただきます」という脚本を書きました。
戦争をテーマにした物語は暗いものになりがちです。笑いの要素を含めながら戦争についてもまっすぐに考えられる本を書いてみたい。そんな思いから考えた物語です。
ストーリー
七福亭ポン太郎は、こんな名前だけど、自称「見た目はそこそこ悪くない」女性の噺家。
平成元年、ポン太郎は鶴松師匠から真打昇進を告げられる。そしてポン太郎の名前も改名すると。真打に上がるからには華やかな女性らしい名前を付けてもらえると思っていたポン太郎に師匠が告げた名前は「熊五郎」。
「熊五郎」は鶴松師匠の兄弟子の名前で、二代目は女に継がせると決めていたという。そして、襲名披露の演目は艶話の「権助提灯」を演じろと命じられる。「熊五郎」という名前を受け入れがたいポン太郎は真打昇進と言われても素直に喜べない。
しかし、初代熊五郎がある場所で演じた権助提灯の逸話を聞かされ、ポン太郎は自分が熊五郎を継ぐことの意味に気付く。
どんな話でも自由に演じられる平成の噺家が「禁演落語」の有った時代の世情を知り、その事実と向き合い、かつて禁演とされた演目を自由闊達に演じる。
気楽に笑って楽しみながらも、戦争について、平和について考える物語。
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作者: 津島次温(つしま つぐはる)
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