京都の建物疎開 - 五条坂の場合

こんにちは。原田直子です。私は朗読劇「記憶―五条坂の手紙」の登場人物です。朗読劇「記憶―五条坂の手紙」は、五条坂の建物疎開に翻弄された私の祖父母の人生の足跡を、私と母の二人で辿っていく物語です。

この記事では、物語の核となる五条坂の建物疎開について、私が知っていることをまとめました。建物疎開は太平洋戦争末期の京都にもたらされた戦争被害のひとつです。京都に住んでいる方にも、京都を訪れるみなさんにも、京都の町にこんな歴史が有ったことを知ってもらえたらうれしいです。

それから、「記憶―五条坂の手紙」は、脚本の作者、津島次温さんのwebサイトで紹介しています。興味のある方はそちらもご覧ください。(脚本紹介ページはこちら

それでは、ここからは五条坂の建物疎開について、話していきたいと思います。

建物疎開とは

まずは建物疎開とは何かについて話します。

建物疎開とは、太平洋戦争の末期に、軍事的、政治的な拠点を空襲の延焼から守るため、その周縁の住宅を強制的に撤去した政策のことです。御所などの重要施設がある京都でも建物疎開は実施されました。

建物疎開はどのように実施されたか

建物疎開はどのように実施されたのか、その様子を調べてみました。

まず行政機関によって疎開対象地域が選定され、対象となった家に疎開票という紙の案内が貼られます。疎開票にはその家が撤去対象であること、撤去にあたり立ち退き期限がいつであるかなどが書かれていたようです。当時を回想するいくつかの記録を読むと、立ち退きまでに与えられた猶予期間は一週間ほどしかなかったそうで、疎開票を貼られた家庭は突然の通達に途方に暮れたのだろうと想像されます。

撤去の日が来ると、その地域の警防団や勤労学生らが集まり、撤去作業を行ないました。つまり対象家屋を壊していくのです。撤去の方法はいろいろ有ったようですが、建物の柱にロープを縛り付け、大勢の力でそれを引っ張って家を倒したというような記録が残っています。

取り壊された家屋の残骸は、近隣の人たちが薪として持って行ったそうです。当時はさまざまな物資が不足していたので、薪は貴重だったのです。

建物疎開で家を失った人々

撤去対象となり家を失った人たちは、立ち退き期限までのわずかな日数で転居先を探さなければなりませんでした。遠方の親戚を頼って引っ越す人もあれば、疎開対象にならなかった近隣の借家を見つけて移り住む人もいました。疎開対象となった家庭には補償金が支払われたようです。ただそれが退居に見合う十分な金額であったかどうかは、あまり資料が無いので分かりません。

疎開票を貼られ、突然自宅を失うこととなった人たちのショックは大きかったようで、撤去作業の当日、自宅が取り壊されていく様子を茫然と眺めていた人も居たようです。

京都の建物疎開

京都では、御所や府庁舎などを守るための大規模な建物疎開が実施されました。対象となった主な地域は五条通、堀川通、御池通などです。これらの通りは現在では京都市内の主要な大通りになっていますが、道路開発の用地には建物疎開によってできた広大な空き地が活用されたのです。

ここまでは建物疎開の概要について紹介しました。ここからは私の祖父母が暮らした町、五条坂の建物疎開について話していきます。

五条坂の建物疎開

五条坂は京都市街地の南東部、清水寺に近い東大路五条から大和大路五条までの五条通周辺の地域です。そこは京都の陶磁器「清水焼」発祥の地で、その歴史をたどると豊臣秀吉の時代にまで遡るという焼き物の町です。

この町の中央を東西に走る五条通は、現在は片側4車線の大きな幹線道路ですが、戦前の様子は今とはまるで違っていました。

清水焼の町―戦前の五条坂

太平戦争の末期、つまり昭和20年までの五条通の道路は現在の五条通の北側にある歩道部分にあたる場所だけでした。当時の五条通は人が肩をぶつけながら往来するような狭い通りだったのです。現在車道になっている広大な土地には、戦前は陶器店や陶芸家の工房が軒を連ねる町並みが在りました。狭い通りを挟んだ南北にいくつもの登り窯があり、工房から窯へ陶器を運ぶ大八車が盛んに行き来する活気に満ちた町だったそうです。

五条通の南側には弁財天を祀ったお寺がありました。そのお寺の境内では月に一度、「弁天さん」と呼ばれる夜店が開かれていたそうで、たくさんの出店に人が集まりにぎわったようです。金魚釣りのような今でもよく見かける出店の他に、詰碁と詰め将棋を出題する店や古本屋といった今の夜店には並んでいない屋台もあったらしく、子供だけでなく大人も楽しむ夜店だったようです。

清水焼の登り窯から立ち上る熱と煙や、月に一度の夜店を楽しむ人々の姿を想像すると、当時の五条坂の賑やかな光景が想像されます。

昭和20年の建物疎開

昭和16年12月に太平洋戦争が始まると人々の生活はさまざまな制限を受けるようになりました。そして戦局は年を経るにつれて悪化し、昭和19年の半ば頃からアメリカ軍による日本本土空襲が始まりました。空襲被害は京都にも及びます。昭和20年1月、五条坂からそれほど離れていない馬町という町が空襲を受けました。この空襲がきっかけとなったのでしょうか、京都でも空襲に対する警戒が強まり、その一環として建物疎開が計画されます。五条通も疎開の対象となりました。五条通の建物疎開では、東大路通から千本通まで東西約3キロメートルに及ぶ区間が対象となり、五条坂もその対象に入っていました。

五条坂で撤去の対象となったのは五条通の南側の地域です。その当時、五条通の南側には音羽川という川が流れていました。清水寺にある音羽の滝を源にする小さな川で、五条通の南側を通って鴨川につながっている川でした。この音羽川と五条通の間に挟まれた地域の住宅が撤去対象となったのです。

昭和20年3月末頃、対象地域に疎開票が貼られ、取り壊す地域と残される地域の境界に線が引かれました。退去を指示された人たちは引っ越しの準備に追われました。疎開の対象にならなかった五条通の北側へ貸家を見つけて引っ越した人。音羽川のさらに南へ窯を移動させた陶芸家。そして五条坂に住むことを諦めて遠方へ引っ越していった人。疎開対象となった地域の人たちは、次の住まいを慌てて探すことになったのです。弁天さんの縁日が開かれていたお寺も、弁天堂の弁天像と石碑、それからお寺の本尊の阿弥陀像などをリアカーに載せて運びだし、知り合いを頼ってお寺を開け放ったそうです。

取り壊しの作業には町の警防団や婦人会、学生、それから軍隊も参加したそうです。軍隊は戦車を動員して町を壊し、警防団や学生たちは建物の柱にロープをかけ、大勢でそれを引っ張って家を倒しました。こうして五条通の南側は広大な空き地となったのです。

建物疎開の跡「疎開地」のその後

五条坂の建物疎開が実施されたのが昭和20年3月末から4月。それから半年と経たない8月には終戦を迎えました。戦後、音羽川の北側の広大な疎開の跡地は、地域の人たちから「疎開地」と呼ばれるようになりました。疎開地の一部は芋などが植えられて畑として使われたということですが、大半は広大な空き地として放置されていたようです。そして終戦から2年後の昭和22年頃から始まった都市開発により、疎開地は現在のような幹線道路として整備されました。

今も残るかつての五条坂の面影

ここまで、五条坂の建物疎開について、私の調べたことを話してきました。

建物疎開の対象となった五条通のおよそ3キロにわたる地域の中で、現在でも当時の町の様子をとどめているのは五条坂の周辺くらいではないでしょうか。

戦後の都市計画で五条坂の登り窯は使用を禁止されたため、清水焼の拠点は山科へ移動しました。それでも五条坂の界隈は今でも焼き物の町であることに変わりはありません。

建物疎開を免れた五条通の北側には戦前から続く陶器店が今も軒を並べています。また五条坂の周辺には今でも多くの陶芸家が工房を構えています。登り窯の窯跡も残っています。鐘鋳町にある河井寛次郎記念館では当時の登り窯を見学することができます。この記念館は陶芸家河井寛次郎の旧邸なのですが、戦時中に掘られた床下防空壕が今も残っています。

さて、建物疎開の境界線となった音羽川ですが、戦後しばらくはその姿を残していましたが、周辺の都市化が進むと暗渠化され、道路の地下にもぐってしまいました。しかし、若宮八幡宮の南側、河井寛次郎記念館へ向かう小路には、かつて音羽川が流れていた跡が今でも残っています。

五条坂界隈は今、観光のお客さんで賑わっています。幹線道路化された五条通は国道1号線となり、たくさんの車が往来しています。そんな五条坂には、かつては陶芸家や陶器を商う人たちが暮らす焼き物の町が広がっていたのです。そのような戦前の風景に思いを馳せて、五条坂を訪れてみてはいかがでしょうか。

※この記事を書くために参考とした情報
この記事は、五条坂地域のみなさんから聞き取ったお話をおもな参考情報としたほか、
つぎのような資料やwebページを参考にしました。
・建物疎開前の五条通の地図 (京都府立京都学・歴彩館所蔵)
・Wikipedia「疎開」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E9%96%8B

建物疎開を題材にした朗読劇脚本「記憶―五条坂の手紙」

最後に、私が登場する朗読劇「記憶―五条坂の手紙」を紹介します。この物語は五条坂の建物疎開に翻弄された私の祖父母の人生の足跡を、私と母の二人で辿っていく物語です。

あらすじ

お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの法事のために五条坂の実家に帰ってきた私(直子)は、実家の地下に掘られた戦時中の防空壕の中で古い手紙を見つけます。

「高志さんへ、どうぞご無事で帰ってきてください」

お祖父ちゃんに宛てられたらしいその手紙には差出人の名が書かれていませんでした。私はお母さんと一緒に手紙の謎を紐解こうと、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの人生を辿っていきます。学徒出陣。建物疎開。動乱の時代の恋と友情。戦争に翻弄されたお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが心に仕舞い続けていた密かな想いを知ったとき、私は自分自身の生き方にも思いを馳せるのです。

脚本の一部を試読できます

朗読劇「記憶―五条坂の手紙」の脚本の一部を試読できます。読んでみたいという方は下のボタンからpdfをダウンロードしてください。

  

   

「全文を読んでみたい」「公演に使いたい」という方は作者まで

この脚本を全文読みたい。公演やラジオドラマで使ってみたい。という方は、作者の津島次温(つしま つぐはる)さんにご連絡ください。連絡先は脚本紹介ページをご覧ください。